12月は予定をつめこみすぎた。
重なる時は重なるもんなんだ、と、ずっと逸る気持ちで1つ1つを同時進行させていくと、
それはそれでそのリズムがあり、そのリズムで醸造される物事の通り方があるようにも感じた。
なにをしているときにそれをやるか。
12月初旬は、夏に大変お世話になった城崎国際アートセンター(KIAC)に滞在し、
1週間ほどのダンスプログラムに参加。踊り手としての身体にのみ集中した。これがよかった。
帰郷し、これまた今年からお世話になっているUrBANGUILDでのダンスイベント、
FOuR DANCERS での本番が3日後に迫っていた。
前回、FOuR DANCERS でのソロは、「安以寸」(平仮名は漢字を崩してきて出来上がったらしい。安=あ、以=い、寸=す、と言うわけで、「あいす」)を書き、それを辿るということをやっていた。
書くときの身体、そこには筆記具と支持体・空中の間にできる摩擦やはね返り、書くリズムの発生と、それらと寸分後追いでやってくる視覚的な情報とが、混交していて、書き手の身体がどうその時の空間や時間をとっているか?ということも混ざってくる。
前回は、書き文字「あいす」に含まれてくる、点画の形にみる質や情景みたいなことと、触覚・固有覚刺激の変容をベースに振り付けたけれど、
今回はもっと切り分けて、個人的な感情や世間一般にも意味があまり乗ってこない言葉をえらび、視覚的な情報のボリュームを大きく下ごしらえし、本番ではその骨組みを、リズムや質の変化によって崩していく即興とした。
文字が、書体が、象形的な意味だけでなく、書いていく都合でその形を変えてきたことに何かしらの敬意を感じつつの即興だった。
ちなみに、今回は「十口山人」。
私にとっては、書道教室で毎回最初に練習で書くように言われていた、キソレン的な言葉だった。
結果として、今回の即興では、私の身体にあるいろんな面が見えてくるということになった。(そうらしい。)
感情と根分けされた、身体による詩性が見えてきたりするんだろうか。そうなったら面白いな。
書き文字、なのだから、その味が踊りに乗ってこなかったら面白くない。
そして、その味というのをどう見てとるかは、やはり一人の作業では不十分だということもわかった。
人間は多面的なのだから、書き文字だってそうだ。何度も書き文字と出会い直して、複数人でリサーチしていくことも必要だ。そうやって振付をつくることに、この取り組みのたのしみがありそうだと分かった。
いずれにしても、見て言葉をくだいて感想を聞かせてくれた、皆さんなくしては次の展望はこうも発展しなかったので、その気持ちと言葉に感謝。
場所と機会を下さったUrBANGUILD に感謝。
そして、、ずっとこわくて率先してはやってこなかった即興にチャレンジしてみて、
無事生還した安心と、のちほど動画でその日の様子を確認した時の何とも言えない気持ちったらなかったのでした。もっといろんな在り方、いろんな身体との付き合い方を、自分の身体にとりこんで消化して、もっともっと深堀していくしかない!たのしいなぁ。